私は塑像作品の習作はFIMOで行なっている。他の粘土同様にこねて造形した後で、オーブンに入れて110℃位で焼成することで硬化する樹脂粘土FIMOは、焼成時の収縮による変形も少なく、硬化後の切削・切断・追加・再焼成・塗装可能と加工性も良いので、トライ&エラーで試行錯誤しながら造形を少しずつ詰めていきたい私の造形スタイルと相性の良いマテリアルである。
着手から数ヶ月を経て〈佇む〉の習作の造形がようやく最終段階に到達した。
上部先端の造形がなかなか納得のいく形状に到達せず、造っては切断し、変形させてはまた切断しやり直すということを繰り返したのち、ようやく私の感性にバチッとはまる形状を見つけることができたその瞬間というのは、いつだって他に代えられない高揚感に満ちている。
基本的な造形が決まったら、光源に対してゆっくりと回転させて陰影の変化を視覚的に検証するのと同時に、指先の超微細な感覚を頼りに細部の面の流れを整え詰めていく。こうしたアナログな工程によって生み出された数値化しにくい曖昧な面や形状は、デジタル制御された機械なら容易に作れる真円や直線や平面では決して醸し出すことのできない魅力となるのは間違いない。
それは同時に、私が “画面強度” と呼んでいるものを高めることにもつながる。
画面強度とは物理的な強度ではなく “視覚的な強度” であり感性に語りかける強さである。これは絵画など優れた作品を観る場合、いくら長い時間みつめていても全く感性を飽きさせることが無く、むしろもっと見ていたい、もっとその作品世界へと没入したいと感覚させる惹きつける力のことで、逆に出来の悪い作品や手軽に短時間で作られた作品、未完または未熟な感性によって作られた作品などでは “画面強度が低い” ため、印象が薄っぺらでいとも簡単に崩壊してしまうのである。ある程度の審美眼を養っていればこの感覚は理解できるだろう。
平面構成で基本的に1パターンのビジュアルしか持たない『絵画』とは異なり、『彫刻』の場合には上下左右360度の無数の視点によって数多のビジュアルが発生するので、そのすべての視点で画面強度が崩壊しないように面を調和させる作業にはものすごい集中力が要求されるため、作業がひと段落すると途端に魂を引っこ抜かれたような脱力感に包まれることになるのだが、それが辛くもあり心地良くもある。
習作造形の終盤、いわば暗く長いトンネルに迷い込み、遠くから射し込む一筋の光だけを頼りに探り々々半歩ずつ進むような状態から、ようやく出口の存在を確認できたような安堵感がある。こうした到達における充足感というものは、他所から与えらたエンターテインメントをただ楽しむだけの享楽行為からは決して味わうことができないもので、私にとっては何よりも欠くことのできない最重要な感覚と云えるのである。