kishin 貴真

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VOIDISM 〜捨象主義 美と沈黙〜

  • I. 具象・抽象・捨象
  • II. 色彩と形態
  • III. 触媒としての絵画
  • IV. 絵画の意義と現代性
  • V. 作品

IV. 絵画の意義と現代性

時代を遡って絵画の意義を考えてみれば、それが時代の要求に呼応するように変化していることが判然としてくる。そもそもは記録としての意味合いが強かったものだが、やがて王侯貴族の自尊心を満たす為の役割を担い始め、そうした構造が崩れる頃には宗教や政治のプロパガンダに用いられるようになっていったが、これらの時代には芸術といってもむしろ高度な作画技術を中核に据えた職人的能力が重要であり、伝えたいメッセージをできるだけ魅力的に(時には欺瞞も含みつつ)伝えることを要求されたであろう点は、現代においてのアートディレクターや広告写真家のような立ち位置だったのではないかと推察できる。

表現においては、時代を背景に自由の限界量というものが暗黙のうちに規定されている。現代では巨匠として認められている数多くの画家たちが、その当時には変人扱いや狂人扱いさえされて存命中には認められることがなかったというのはよく聞く話で、それは極めて優れているからこその鋭敏すぎる感性によって “新しすぎるもの” を生み出してしまった結果、その時代の表現においての自由の限界量を超えてしまっていたからに他ならない。しかし、時代は移りゆき “新しすぎるもの” を受容できるまでにその限界量を膨張させ続けてゆく。そうした時の流れの末、現代のように芸術作品それ自体が嗜好や享楽の対象となり、更に良い場合には観者の魂の練磨においての対話相手となっていくことで、芸術家自身も各人各様に独自の思想を伸びやかに展開・発展していくことが許される道が拓けていったのであろう。

しかしそれには功罪がある。思想の自由の拡張によって多様な様式や手法が次々と試され実行されていくと同時に、芸術鑑賞における共通言語が急速に失われていったことも確かである。驚異的な技巧で描かれた肖像画を見ればそれは素晴らしいと分かる、自然を写し取った情景であれば壁に囲まれた無菌室で育った者でもない限りそれと分かる、宗教画であれば聖書の一節を知っていればその意味を汲み取ることができる。そういった作家/観者間の共通言語が存在した時代には、例え裏に隠された作家の魂の叫びのような真のメッセージがあったとしても、表面的には混乱が生じることは少なかったであろう。しかし、時代の変遷の中でそうした共通言語の使用が徐々に排斥され、鑑賞には翻訳が必要となるような難解な方向に加速してしまう結果となり、それが現代にまで続いていて「現代アートは難しい」と観者に感じさせてしまう最たる要因ともなっている。

捨象主義が沈黙を選択しているのはこうした時代背景を鑑みた末の結論でもあり、翻訳する必要のない唯一の言語、つまりは沈黙を採っているのである。その存在性を例えるなら、幻想のごとく茜色に染まる夕暮れの空に、足跡ひとつない早朝の静謐な白銀世界に、明るく肌理の整った優美でしなやかな肌に、色鮮やかに瑞々しく輝く果肉に、漆黒の恐怖に優しく手を差し伸べる眩い月明かりに共通して感じるような、否が応でも魂を鷲掴みにされてしまうような、時代や文化を問わないそうした色彩に人為的な意図など入り込む余地はないが確かに美しく、また沈黙であるが故に自身との対話をせざるを得ない状態へと導くことになる触媒性を内在していて、それこそが捨象絵画が現代において美と沈黙を携えて存在する意義といえよう。

現代はテクノロジーの進化によって情報で溢れかえっている。必要な情報は有益だが、欲していない情報は騒々しいノイズに過ぎない。しかし、そのノイズを避けることは現代にあってはなかなか困難であり、故にそれがストレスを生み出していると知りながらも甘んじて受け入れることしかできないのも事実である。そんな時代だからこそ、投げかけてくるメッセージも読み取るべき意図も持たない、ただただ美と沈黙だけを内在させている純度の高い触媒としての絵画芸術が、魂の安息と自己の内省のために必要だと考えるのである。

捨象主義は、多様なる人間への賛歌であり、その歌声は沈黙である