kishin 貴真

VOIDISM 〜捨象主義 美と沈黙〜

  • I. 具象・抽象・捨象
  • II. 色彩と形態
  • III. 触媒としての絵画
  • IV. 絵画の意義と現代性
  • V. 作品

III.  触媒としての絵画

捨象絵画において形態を捨て去るべきもうひとつの視点は『触媒性』という部分にある。モティーフが描かれていないから何も見えない何も感じないかといえばそうではなく、人間の脳は視覚から得た刺激をもとに、それが何かを判断すると同時に、それに触発されて過去の経験や記憶や知識から作品自体とは直接には関連のないような感覚を想起することが往々にしてある。つまり、人は作品に描かれていないものを見たり感じたりすることができるのである。勿論、そうして想起されるものは、はっきりとした輪郭を持った物質や光景である場合もあるが、匂いや味・手触り・音や言葉、果ては漠然とした雰囲気といったような非物質的な感覚である場合も少なくない。捨象主義絵画の存在意義はと問えば、極めて純粋な触媒性の探求と獲得にあるといえる。

モティーフを描かない絵画としては、美術史上にはカジミール・マレーヴィチが提唱したシュプレマティスム(絶対主義)による無対象絵画が存在しているが、それは「対象物を描くという伝統的な制約から絵画を解放し、絶対的な自由と自立性を与えるためのもの」であり、その理念を検証していくと、作家と絵画(芸術)の間にある関係性を崇高なものにしようとする試みであり、そこに観者は不在であることが読み取れる。対象を描かないという同じ手段をとりながらも、絶対主義では絵画やシュプレマティスムという理念自体の自律性を目指しているのに対して、捨象主義では逆に絵画から自律性を奪い去ることで、虚無を観者に突きつける目的を果たす触媒性を与えているという点で、論理的には全く対極の結論へと到達している。

そうした触媒としての効果を最大限に引き出すためには形態は非常に邪魔な要素となる。形態は、観者が生きてきた環境や文化から後天的に学んだものを強く想起させてしまう要素であり、特に知識や経験が豊かな大人ほど「この形はこういう意味だ」といったルールの植え付けが根深いために自由な絵画鑑賞などは到底できない状態に陥ってしまっていることも多い。これに対して、形態を伴わない色彩は、意味的な具体性が低い分、後天的知識の影響よりも本能的な感覚への働きかけが強い。そのため、形態よりも色彩による方が純粋な触媒性を獲得できるのである。

また、そもそも人は“見たいものを見る”傾向にある。対象にどういった意図やメッセージが込められていようとも、観者自身の感性や体験、知的レベルに相対的に納得のいく結論を自分勝手に形成してしまうものであるし、それは変えようがない。それならば、そうした特性を否定せずにそのまま許容し、むしろ阻害してしまわないように純粋にそうさせることで、“〜であるべき”といった社会的規範が多い時代においての窮屈さから一時的にでも解放させるための触媒と捉えることで、捨象絵画と対峙する体験の意味や価値が多少なりとも理解できるのではないだろうか。それは、人の多様性を突き放すことなく受け入れ、頭を使わない肉体的・本能的な視覚体験を通させることで逆説的に自己の精神の深層と対峙することを促すものである。