kishin 貴真

VOIDISM 〜捨象主義 美と沈黙〜

  • I. 具象・抽象・捨象
  • II. 色彩と形態
  • III. 触媒としての絵画
  • IV. 絵画の意義と現代性
  • V. 作品

I.  具象・抽象・捨象

絵画芸術において、作家のモティーフとの対峙の仕方として具象表現や抽象表現という分類のされ方が一般的には行われているが、それぞれ、広義・狭義では解釈が大幅に異なってくるため、どの作品がどの表現主義をとっているかということを厳密に決定付けることは難しい場合もある。

抽象とは何かを考えるとそれがよく分かる。抽象とは、言葉の通り、象を抽き出すということであり、モティーフ全体の中から本質的な一部分のみに焦点を合わせて、それを選択的に抽き出すということ。その時、抽き出されずに無視され捨て去られた部分が当然あり、その点を『抽象』に対して『捨象』という。つまり、抽象と捨象は同時に行われている表裏一体の行為といえる。

具象表現か抽象表現か、その境界は曖昧で、具象表現として認めることができるのはどの程度まで捨象されたものであるかという視点に立って、判断する者の主観が大きく作用する。例えば、クロード・モネの『睡蓮』を具象表現とする向きもあるだろうし、いや抽象表現だと判断する人も当然いるだろう。しかし、そもそもこうした分類は本質的には意味を持たないものであるし、故に絶対的な正解を決めて据え置く必要などは無く、各々の主観に従えばそれで充分である。

18世紀までは具象表現が主流として制作され、19世紀末頃に抽象概念が深層に芽生え、20世紀に入ってそれが育まれ絵画芸術を席巻するまでに至ることになる。具象表現、抽象表現に関わらずそこにはモティーフという存在があった。それは現実世界に存在する人や風景や物である場合もあるし、社会的あるいは作家の内面的なメッセージを作品内部に具体化させる場合もあるが、一様に“何か”を描いていたことに変わりはない。そうした思想に基づいた絵画が千年を超える長い間制作され続けた結果、当然の帰結として観者に対しては“何か”が描かれていなければ絵画としては認められないというあまりにも強固な先入観を植えつけることとなった。

そうして時代は移りゆき、今は21世紀である。そろそろ絵画思想の歩みを次の段階へと進めても良い頃合いではないだろうか…そう感じたのが、私が捨象に焦点を合わせて作品づくりに取り組み始めた原初的衝動といえる。

徹底的に捨象するということはつまり、モティーフは無く、色彩も形態も無く、技術も意味もメッセージも無い作品ということになる。しかし、それが意味する物は完全に無色透明無重量な状態となってしまう。作品が存在しない作品というものが美術史上には存在していて、International Klein Blue (IKB)という独自に開発した青色で有名なイヴ・クラインの行った『空虚』展もそのひとつといって良いだろう。展の開催会場内には作品がひとつも展示されていなかった訳だが、案内状や開催会場までの道の途中に置いた物を青(IKB)で彩ることで観客の心理にその青の印象を植え付け、そうした状態で開催会場を訪れることにより、会場内にある「非物質化された青」と同調できるという展であったらしい。非常に面白い試みだとは思うのだが、それは思考実験やコンセプチュアル・アートの領域にあるものなので、絵画芸術ではそこまで踏み込んでしまう訳にはいかない。

では、絵画芸術として成立し得るギリギリの捨象とはどこまでなのだろうか。